ブログの話から会話の話に脱線する記事

あんまり最近ブログを更新していない。

ブログの内容については、書きたいことを書けばいいのではないかという意見もあるだろうが、やはり独創性のようなものがあると書いてても書き涯があるし、読んでても面白いのではと思う。

 

今のブログの内容は、身に起ったことや、読んだ本について直感的に感じたことを書いているだけで、その体験があったり、その体験を聞いたり、その本を読んだ人にとってはありきたりになっているのではないだろうか。

 

私はそれは自分で面白くないことをしていると思う。誰も直感的には思いつかないようなブログの内容を書きたいのが本音である。

 

例文を挙げよう

田中「あー、今日は天気がいいね」

鈴木「天気予報で言っていたけど今日は午後から雨が降るらしいよ」

 

反吐が出るぐらいありきたりな会話である。私が鈴木なら田中を無視したいぐらいだ。この話題が全国で同時に何人に話されているのだろうか。天気の話題での会話をいままでに何回こなしてきているのだろうか。しかし、ここで鈴木は愛想笑いをすることもあるだろう。ちっとも面白いことなんてないのに。ありふれた話題でしか会話できないのでこれぐらいしか笑うところがないのだ。

逆にありふれていない会話を挙げよう

 

須藤「サメの姿煮作ってみたけど、まあまあだったよ」

兼好「サメよりウツボの方が歯ごたえがよかったよ。」

 

ありふれていないという点だけで言えば、上の会話は及第点をクリアしているだろう。しかし須藤の話題提供の方法は経験の報告である。このようなありきたりでない報告は自分がありきたりでない体験をしていないと出せないものだ。なんの刺激もない生活をしているとこのような経験を元にした話題を提供することは難しいだろう。

 

そして兼好の答えである。「ええ!!珍しいね!!」などと一般じみた返答をしないことは評価するが、若干、サメの意外性に対向して、ウツボというまた、あまり天気の話のような日常会話に登場しない単語を持ち出してしまっている。これは会話として自然な流れといえるだろうか。兼好がしたり顔でこの発言をしているのならば、失格である。背伸びして珍しい単語を出したのが透けて見えるからである。この場合は、兼好はサメはおろかウツボを食べたかどうかさえ、怪しくなってしまう。

 

だが、はたして会話において事実に基づいた発言というのは必要なのだろうか。業務連絡でない、雑談の主な目的は、意見交換でなくお互いが気分をよくすることだろう。楽しければいいのである。実になる会話でも、終始、暗い気分、あるいはピリピリした気分であれば、また心から会話をしたいと思うことはなかなかないのではないだろうか。

 

そうすると、兼好のウツボの発言は嘘であるか本当であるかは問題ではなく、兼好の気の持ちようが問題である。ウツボと発言したからには、その後、場が白けないように会話を続ける義務がある。話題提供をしたからには、会話をしたいのであり、「あ、そうだね」とか、「まあ、嘘だけどね」とかで終わってしまっては話題提供しがいがないのだ。

 

あなたが須藤や兼好ならどういった会話を続けるだろうか(問題提起的なので締め(かっこいい))

 

1984年読みました

1984年のネタバレあります。

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上の本で登場人物が盛んにおすすめしていたので、

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ジョージ・オーウェルの1984年という小説を読んだ。とても有名らしい。

今読んできたのだが、怖くて、暗い気分になる小説であった。いつか起こる悪いシナリオを予見させるような。

 

要約すると、政治的権力が猛威を振るい、民衆の行動、思想までもが大幅に弾圧される。決まった型のような考え方をしなければ、思想警察に捕まり、に罰せられる(死ぬ)。という恐ろしい世界ですごす人間を描いた物語であった。

 

成人の中には、党がこのような体制を取る前から生きてきた人も多いので、内心反発する人もいる。しかし、子供は生まれた時からこの体制の中で暮らしていて思想が植えつけられているので、党の教えに従うのが正しいことだと心から信じ込んでいる。その結果周囲の人(親を含む)が党の方針に反する思想を持っていると、警察に通報するといった行動を取るようになっている。休日もほぼ自由がない。党が決めた娯楽に興じるしかない。

 

はえー。意外と子供こわいんですねえ。こんなのと同じ屋根の下で暮らすのは勘弁願いたい。心の奥底で考えが違ってそれは一方的に許されないので本心を出せないではないか。どこでも本心出せないとイライラしてきそうなんですが。

 

また、外や家ではテレスクリーンと呼ばれるテレビみたいなものがあり、党が映像を流してくると同時に、民衆が党の思想に沿わない言動を取ってないかを見張っている。

すると、ネットサーフィンはおろか、日記をつけることすら犯罪行為となってしまうので本当に本音を言う場所がない。生活の大半で本音が分かれている時点で息苦しいのに。四六時中これである。

 

小説の本筋を最後まで書くと、

主人公のウィンストン・スミスは職場で気の合う(党に反発する)女性に出会い、党の監視を注意して潜り抜けながらイチャイチャしたりする。またある日に職場で目が合った男性にこの人は分かる人だと思い込んで、勇気を出して仲良くしようと切り出すとなんといい人で、党に反発する同盟を組んでいるほどだった。と、思いきや実は党の幹部みたいな人で主人公は捕まってしまう。きつい拷問により思想を刷り込まれる。最後は完全に洗脳された後に殺されてしまう。といった救われない話である。

 

以前はそんなことはなかったので、どこかで変化は存在したのだ。民衆にそれを食い止める術はあったのだろうか。と考えてしまう。

 

それにしても暗い気分である。おしまい

厄払い行きました

アーハァ 久しぶりのブログ更新である

今日は厄払いに行ってきたお
そう、私は厄年なのである
厄年でも厄払いに行かない人もいるだろうし
こんな中途半端な時期に行かずに正月とか節分までとか正式に
定められた日に行く人もいるだろう

厄払いに行かない選択肢もあったのになぜ厄払いに行ったのか


理由は1つではなく、2,3個ある 2個かな
まず、今年は厄年だから、ついていない事が、なにか大変なミスを
するのではないかと言う不安があったり
また、ミスや不幸な出来事を厄年だからだという釈然としない理由で
片付けてしまうのを防いだり、和らげたりするためである。
私はメンタルが弱い方なので、ミスや不安などは長く頭に残留し
妙に疲れたり、時間を無駄にしたりすることがある。
メンタル弱い人間として、厄払いに行く方に天秤が振れたのだ。
次二つ目、期間の限られたイベントに行ってみたかったからである
厄払いは60いくつまで生きられるとすると男は3回ある 女性は4回あるようだ
そう、男なら3回しかないのである。皆既日食とかそんなレベルである。(調べたけどぼかした)
行くしかない。そして私は神社の静かなふいんきが好きだ。だから行きました。

 

いった感想 自分だけのために祈祷してもらうのは新鮮でよかった。また行きたい。
なんかお札みたいなのもらったしお得だ。

おわり

ブログ ネタ 選び方

おっほん、今、私はブログを書いているのだが、皆さんご存知のようにブログと言うのは思うように書け、無限に広がる可能性を秘めている(くさい)

 

といっても頭の引き出しにないものはおいそれと書けないので自分がある程度詳しかったり、事件や本の内容を引用して書くことが多いのではないだろうか。

 

たとえば、登山が趣味な人は登山靴から山の天気まで、登山に関することを書くブログを作成できるかもしれない(私は登山にはあまり詳しくないから適当)

 

ブログ記事を書く事件を調達するには、簡単である。ニュースサイトで記事を拾ってきて、感想、考察書けばいいのだ。ただ、同じようなブログ記事が一時期に多発するという現象が起こるだろう。これは面白くないと感じる。また、同じようなブログ記事が沢山発生していることは確認してない。許してください。

 

問題は本を読んで感想を書く記事、いわゆる書評である。これは個人的にかっこいいからガンガン書いていきたいのだが、いかんせん一冊読むのに時間がかかる。時間がかかるの要因には本をじっと読む集中がすぐ切れてしまう影響が含まれている。そこで、本をそんなに読まなくても書評記事を量産できる方法を考えた。

 

本を一冊読むのは時間がかかる。デカルトは言った 困難は分割せよ と(格好をつけている)。つまりこういうことだ。一冊の本で何本も記事を書けばいいのだ。

例えば、デカルトの「方法序説」。いくつかの章によって構成されているはずだ。その章1つずつに書評をつけるというのが今回考えた戦法の一つだ。読んだのが1年以上昔な上に途中で諦めているので記憶が定かではない。

この方法で書評記事を薄くして分量を増やしていこうというのが今後の狙いの一つだ。

 

仕事は楽しめるもんなんですかね

拙者の人生においてしばらく続く研究室生活、面白いものとは思えない。今までの1年が辛い思い出で溢れているからだ。

 

かといって就職に逃げても今より状況が改善されるとは限らない、環境の問題でなく、心の持ちようの問題であれば、何を与えられても不平不満が出てくる可能性がある。

 

そこで、すぐに環境を変えることが簡単でない場合、心の持ちようを変えてみてから、まだその環境が地獄に考えられるのであれば、移動するか諦めるかしたらよいのではないかと思う。

 

 

拙者が今回読んだ本はこれである。

 

仕事は楽しいかね? : デイル ドーテン

 

いままでケチって1000円以下の本しか買ってなかったのでちょっと高く感じたのである。なぜか読んでる途中、ハイライトしなかったので思い出、記憶を頼りにレビューするはめになる。

 

主人公はしがないサラリーマンで、これは話を聞く人である。この本はこの人の体験談なのだ。シャーロックホームズで言うワトソン君みたいなものだ。シャーロックホームズ1ページぐらいしか読んだことないけど。

 

主人公、すなわち著者が飛行機の欠便のため、空港で立ち往生、座り往生しているとフレンドリーおじいさんが現れ、馴れ馴れしく人生の教訓を教えていくという話である。これは自己啓発に分類されるだろう。自己啓発だろう。自己啓発の本を読むのは好きだが、恥ずかしくてあまり人に話しにくい感じがする。物語形式な自己啓発書は真新しさがあるのではないだろうか。

 

おじいさんが話す内容がこの本での売りなのである。アマゾンで好評価なだけあっていいコトを言ってくれるのだろうか。

 

そのうちの一つを紹介すると(多くは忘れてしまった)

試してみることに失敗はない

 と言っている。

 

 

身近な例を出すと、同窓会行って見たいけど、昔の友達は参加しないみたいだし、独りになって浮いたら哀れだなあ。との想像から、参加しない という結論を出すことからは何も生まれないが、もし試しに行ってみたらすごい金持ちがいて、友達になってくれるかもしれない。死ぬまで付き合いが続くかもしれない。これは試しに言ってみようと思わなければ、得られなかったことだ。 僕は同窓会怖いから行きませんが

 

色んなコトで実行する前に、よくないことが起こるだろうな。という決め付けで行動しなかったり、そもそも新しく何かを始めることが面倒でやめてしまったりするだろう。

確かにそのよくないことが的中したり、そのせいで死んでしまったりするかもしれない。さすがに死んでしまうのは嫌なのでそのような行動はなるべく避けたい。ただ、死にはしないけどメンドクサイ目にあうとか、犬のうんこ踏む程度の失敗で済み、新しい体験や、仕事や私生活で新たな進展が見られることなら躊躇わずにやるのがいいんじゃないかな。

 

と思いました。そんな感じである。読んでよかったと思う。新しいことを試してみるハードルが低くなったように思う。なんか始めるのはいまだに面倒に感じるし、新たに何か始めたかと聞かれると・・・。 始めようとは思ってるんですけどね。はは・・・

ちょいとブログのデザイン変えました

ブログデザインはテンプレから選ぶようになっているんですが、

テーマ ストアってところでデザインのテーマが多く発表されてて

好きなのを選ぶことも出来るのです。今回拙者が選んだのはこれで

 

Mistilteinn - テーマ ストア - はてなブログ

 

記事と右のプロフィールとか、がはっきり分かれているのが気に入りました。

うーん、はてなブログでこう、玄人っぽいタイトルと関連した写真で構成された

 

     f:id:kirehasi:20160402211339p:plain

 

 

こんな(ヘッタクソな絵)感じのサムネで記事に誘導したいんですが

これは、また調べてからです。

今の変な感じの記事だとデザイン負けして余りよくないんじゃないですかね。

今もデザイン負けしてるといえばしてますが、デザイン負けってなんなんですか。

 

アアー 文字小さく感じる。大きくしようと思ってCSSにググってこれ貼り付けたら文字サイズ変えれるってやつ貼ったんですけど、変わりません。誰か助けてくれませんかねえ・・・

 

卒業研究つらい

んもう!

卒業研究は当然のように期限があるのでそれまでにデータを出さないといけないわけである。

その実験が成功率が低いものだと成果が出るまで実験し続けるはめになるのだ。

好きなゲームでもそんなにやりこまんよという頻度での実験で疲労がたまっている。睡眠時間を削っての実験はしんどい。やりがいもないし。

装置のレア度に頼るんでなく、1から自分で組み上げていくような研究のほうが達成感があるのではないかと思う。

1年前に戻れるならこの研究テーマは選ばなかった。4年前に戻れるならこの学科には入らなかった。

今、工学部に所属しているのだが、入った動機がなんとなくオタクが多そうで気をつかわなそうだから理系で、その中ならものづくりができる工学部だとか思っていたのだが。

学科にもよりけりである。今の研究はものづくり?は?という感じである。しかもそんなにオタクいないし。

SOHOで働きたく、外で働くなら帰るのがあまり遅くならないのがよいという気分になる。なんとなくでなく、次の選択は選んで行きたい。