原始仏教を日常に取り入れたい 前編

前回の更新より2週間ぶりの更新となる。当ブログである。

 

「です、ます調」で書いた前回の記事が余りしっくりこなかったので「だ、である調」で書くのである。語尾に問題があるかどうかは定かではない。

 

タイトルのとおり、今回は前編なのである。というのも今読んでいる本をまだ半分しか読んでいなからである。「である」使いすぎだ。

 

本のタイトルは「反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」 」です。コピペしたら大文字になった。

 

この本は前から目をつけていたのである。というのも前回に「こころのセキュリティ: 爆発寸前のあなたを幸せに導く「日夜の指針」 (初期仏教の本)」という本を読んで、仏教の教えを生活に実践するのええなあと漠然と考えて、さらに数冊似たような本を読んでいきたかったのだ。

 

紙媒体で買うか電子書籍で買うか迷っていたら、電子書籍版の価格が下がっているようなので買ったのだ。そして読んでいるのだ。現在途中。

 

これはブログに書評(?)を書こうと思ったのでkindleのハイライトを駆使しつつ読んでいたら途中にもかかわらず結構な量になったので、とりあえずブログに出しておこう、最近更新してないしと思ったのである。

 

それでは初めの方は忘れているので、思い出しつつ書いていきます。本文の一部を引用に挙げてそしてそこに関する感想を書いていく方針で行こうと思うのだ。よく分からないと言う方は本を買っていただくしかあるまい。おすすめできる本である。

 

大体の内容は原始仏教は実践的であり、現代人もに生活に取り入れることが出来る。それにより現代社会に翻弄されず、心の平穏が訪れる。という内容です。ですか?

 

現代の私たちにとって最も切実なテーマは〝承認欲〟──「認められたい(認めてほしい)」という欲求です。これは人間だけにある欲求で、動物にはないのだそうです。

 

本文の初めの方にある言葉である。「あ、これは承認欲のために動いてるな」と意識することはなかったが、私もこれには引っ張りまわされているのだ。学生時にテストの点数を競ったり(大体負ける)、こうして人の目に付くブログを書くのも承認欲が動かしているのだろうか。おのれ、承認欲。

 

そして承認欲のような、半場無意識に突き動かされてやったり、思ったりしたことについて放って置くと、もやもやして参ります。

 

長時間テレビやインターネットで遊んでしまったときは、「アタマが混乱していて落ち着かない」「心がざわついている」と客観的に確認します。特に「目をつむって」確認してみると、心が落ち着きます。 

 

このような経験はとてもあるあるである。娯楽のために始めたはずのテレビやネットサーフィンをやっているとだんだん頭が重くなってくるのだ。この対処法が知れるのならば、ぜひ、知っておきたいと思った。

 

それは、この文にもあるように、今、何をやっていて、何を意識しているのか確認するのだ。なぜ頭がもやもやするのか、書き出してみるといいかもしれない。なにも意識しなければ同じ思考がぐるぐる巡って、気分が沈んでいく経験は数えられないほどある。

 

そういうときに、「今、私は怒っているな。昼食がまずかったからだ」とはっきり認識できると、「何か分からないがもやもやする」といったことが避けられる訳である。こういった平和な理由でない場合の方が多いと思うが。

 

 本書では一歩踏み込んで、妄想を抜ける秘訣を「本邦初公開」しましょう。それは、「妄想している状態」と「妄想以外の状態」とを区別することです。

 

ありがたい。こういうことである。得てして妄想は無意識に行われているものなので、それを意識するという手法は思いつくようで、なかなか個人の発想ではたどり着かないのではないだろうか。

 

 改めて妄想というのは毒にも薬にもなるのではないか。と思う。友人に電車で会って気づかれずそのまま降車した後に、「今のはわざと無視したのだ。前に会ったときになにか失礼なことをしたに違いない。」という妄想は私は良くしていたように思うが、このような妄想はあまり多くしていては気分が重くなっていく。これは妄想というには浅い例ではありそうだが。

 

一方、小説家だったり、漫画家だったりは妄想を禁止されると食っていけないわけである。現実に起こってない、確かめていない出来事を想像するというのは完全になくしてしまっては困る能力である。

 

ここでは、「区別する」とだけ言っていて、無くすとまではいかないのだ。無くすというのは私の中の妄想であったのだ。上手いことを言ったつもりである。「今、妄想をしているな」と認識した上で続けたりやめたりすればいいのではないか。というのである。

 

「どうせ失敗するに決まっている」「わたしにはそれだけの能力がない」と、ひとりで「結論を出してしまっている」こともあります。これらは全部「判断」です。

 

 また、こういった判断も妄想とされている。自らの判断で自らを苦しめているのだ。妄想もピンキリなように、判断も良い判断、悪い判断があるのではないか。自分に有利な判断、独りよがりの判断、自分を無理に追い詰める判断を多用していないか。この本では妄想は妄想と現実と区別を付けておいて、正しい現実への理解を導こうとしている。

 

区切りがいいので今回はここまでにする。書評のようなものを初めて書いたが、書評になっているだろうか。引用しすぎていないだろうか。おそらく、書評にはなっていないし、引用しすぎているだろう。

 

 

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