卒業研究がうまいこといかない

卒論の発表の日にちが刻々と迫ってきているのにデータが出ない。

データも、祈っているだけじゃでなくて、実験しないと生まれない。

その、実験がうまいこといかない。

実験装置に色々不具合が出てきて、まともに実験が行えない。

実験が行えたとしても成功率が高い実験ではない。

1日かけて実験して、取ろうとしていたものが取れないこと多々もある。

この瀬戸際が迫ってきたというのに実験データがないという事実がじりじりと頭を締め付ける。

不安である。無事、終わればいいが。数ヵ月後にタイムリープしたい。

 

電車とホームの間に足はまってこけました

こんにちは 今日は電車で通学したのである。通学といえば電車である。

先ほど、帰ってきたのだが、私が乗っている電車が自宅の最寄り駅に着き、

電車から降りる時に、なんと、電車とホームの間に開いたスキマに足がはまって、前のめりになってこけた。

その後は、他に降りている客も多くいたのでリアクション芸もとらず、スッと立ち、そして歩いて改札を出た。動揺で定期をかばんにしまう時にリュックを地面に落とした。

 

怪我はなかった。なによりも、それが大きい。怪我があったら後悔していただろうが、今は電車とホームの間に足がはまったという経験だけが残っている。

これが、運が悪ければ、大変なことになっていたのだ。

足が奥まではまってしまって容易に抜け出せなかったら、駅員さんを呼ぶ自体になるか、そのまま発進して足一本失うかである。怖い。

その他にも、抜け出したにしても靴を電車とホームのスキマに落としてしまえば、面倒くさいことになっていただろう。

 

こういった大事件を回避するためにも、足を電車とホームの間に挟んだりしないように注意が必要である。降りる時に気をつければいいのだ。ぼんやりしているからはまってしまうのだ。習慣化していることは半ば無意識中に行われるので、「電車降りるぞ」という思考が頭にしっかりと登っていないと思われる。

 

これは、習慣化してしまったので、本来は気をつけなければならないことも、気をつけずに行ってしまう。というものだ。太字にしてみた。

私はペーパードライバーなので体験していないが。車も運転に慣れてきた頃が危険だとよく聞く。なるほど、運がよければ、歩行者、対向車がいなければ、右折、左折も確認なしにスムーズに行える。しかし、そのような体験を多く積んでいたら、確認なしに曲がってしまうということが無意識化に行われるのではないか。慣れとというものは怖い。

 

 

 

宮本武蔵読みました

かっこいいぞ。宮本武蔵

吉川英次「宮本武蔵」を読んだ。kindle青空文庫読むのは安くていいのだ。

ネタバレがあるので、読んでなくて、これから読もうという人は読まないほうがいいと思います。

 

小説あらすじ

宮本村で生まれた宮本武蔵は一旗上げようと、関が原の戦いに参加するが、一旗挙げるどころか命からがら逃げ帰るのだ。

乱暴な性格も災いして、故郷の宮本村に久しぶりに帰ると、村人に追い立てられる。そこで、キーパーソンである沢庵和尚に身を預け、ある一室で3年間本を読んで過ごす。3年後出てきた宮本武蔵は人が変わったようで、剣の道で己を高めようと、武者修行の旅に出るというお話である。だいたい。

 

宮本武蔵がアレほどまで優れた武士となったきっかけはなんといっても沢庵である。沢庵も禅などを通じて己を高めているので、手段は違えど、同士である。若いうちに道を定めるまで影響される人に出会えるのは幸運である。本もいいが、実際の人物に会うのは大きいだろう。

 

一方、お杉、という老婆が宮本村にいて、息子が武蔵と一緒に関が原に行って帰ってこないなどの理由から武蔵とヒロインのお通を恨んで悪評をばら撒きながら武蔵を探し、殺そうとするたびに出るのだ。これは行く先々で武蔵の命を狙ってくる人々を動かしたといっても過言ではない。恨みでもここまで行動力を起こせる人はそうそういないのではないか。

 

お杉は何回か武蔵に会い、殺害を試みるが、小さい老人と名のある剣豪とでは勝負にならず、毎回組み伏せられる。そのたびに武蔵はお杉の誤解を解こうとするも、最後まで武蔵の説得には応じなかった。なぜあそこまで恨むのか。息子が殺されたならともかく、途中で生きている息子と再会するし。あそこまで付けねらわれて、何度も命の危機を迎えながらも、殺そうとしない武蔵。読みながら何度殺せと思ったことか。最終的には、お杉はヒロインのお通を半殺しにして我に返ったのだ。あの豹変振りは3年蔵に入って出てきた武蔵を連想させる。

 

宮本武蔵といえば、巌流島の戦い。戦いの相手は、ご存知、佐々木小次郎である。

佐々木小次郎の登場は決闘から数年前、8年ぐらい前、小猿を連れて船に乗っていた。小猿はそのあとどっかに逃げてしまう。なんだったんだ小猿は。佐々木小次郎はその後お杉と知り合い、武蔵が殺すべき敵だと刷り込まれる。そこからお杉と離れるが、宮本武蔵の良い評判が広まり、小次郎は良い気分ではなかった。そんで、街中からどこからともなく武蔵と小次郎が試合するようだという噂が流れ、実際に日取りまで定まり、あの戦いが行われたのだった。

 

小次郎は初めから強かったのだ。武蔵も強かったけど。日々の修行描写はなかったが、ずっとサボってたけど強かったという訳ではないかと思うので、日々鍛錬していただろう。しかし、武蔵は画を描き始めたり、農耕で村を豊かにしたり色々なことに手を出して、精神の修練を図っていた。ただ、剣が強いだけではなく、精神を高めるための修行も積んでいた。そのため、武蔵の言動の一つをとっても裏づけがあってのものだと思わせられた。一方、小次郎は年長者の意見だからとお杉の言葉を信じ込み、その後武蔵と敵対意識を燃やしていたところからすると、軽く思えてしまう。

 

物語中多く試合が行われるが、負けると死ぬか、腕の1本や2本持っていかれたりしていた。粉砕骨折でもしてしまうと、もう元には戻れないだろう。死と隣り合わせの試合にも、精神の成長を見込んでいただろうし、むしろ、そのような駆け引きが出来るからこそ剣の道に進んだのではないかと思う。小次郎との戦いの後に、小次郎のような相手と今後、出会えるかどうか、と武蔵は思っていた。

 

研究に興味持てない系大学生(愚痴)

こんにちは。ブログの更新である。愚痴を書きにきたのだ。以前にも書いたように私の前には卒論が迫ってきていて一日も忘れられないのである。しかもまだ書いていない。

遅れをとっている状況である。参りましたなあ。

 

私の研究は工学部な割に何も生み出してないような研究で、何か作りたかったから工学部になんとなく入った自分が収まるようなところではないのだ。アイボとかの研究したかった。犬好きだし。あ、猫も好きです。

 

なんとなく大学に入ってモラトリアム延長をもくろんだ大学生は多いと思うのだ。私もその一人で、授業とか受けて帰って、それなりに勉強して今まで至るのだ。働きたくなかったのでバイトはろくにしなかった。

 

そのモラトリアム延長で、将来のことを不安に思わなくても済む(すまないが)期間は大学3年で終わりを告げたのだ。延長期間の終了が近づいているのと、周りがもう就職なり就職活動なりを始めているのでそれなりに焦りだした。インターンシップの面接に行ってボコボコにされて、これ、就職無理なのでは・・・と思った経験が不安に拍車をかける。

 

それに加え、大学4年で研究室配属ともなると、授業→テストのルーチンワークでは行かなくなり、自分で何か考えて研究などの舵を取っていかないと白い目で見られる。そして今、見られている。

 

その上、研究がとても面白くなく感じているので、日々が辛く思えてくる。しかも大学院に進学するのでこれが後2年少し続くのだ。

 

そもそも、なぜ、そんな辛い道に自ら進んでいくのか。と聞かれると、問題を先送りにする性格、思考のせいである。ネットで調べると似たような、なんとなく大学院に行った学生も少なくないようなので、少し救われた気分である。修行と思って耐え抜いていきたい。

論理的に話していきたいですね

ほんまに。というわけで、久々の書評である。書評と打つのも久々である。書評ってなんだっけ。どう書くのだろうか。分からない。

 

 

今回の本は、出口 汪 (著)「出口 汪の論理的に話す技術」である。本屋で買ったのだ。話すのが苦手だと自覚していたから購入するに至ったのだ。

 

「話す技術」なので、実践的にどんな感じで話していけばよいかが書かれているのだ。我々もこの本を読む前から外や家で発言していっているわけなのだが、よりよく話したら、対人関係がうまくいくといった内容である。

 

我々の何気なく話している内容の、どこがよくないかといえば、論理に従ってないことがあって、そこがまずいらしい。あまり上手くない人は、すごい、辛い、などの感情語を多用するようなのだ。その言葉は自分本位であり、他人に伝わるように工夫がなされていないから論理的でないらしい。

 

論理的な発言とは、結論、主張があり、それにまつわる具体例や数値などをあげ、結論、主張を補足し、その補足がちゃんと主張につながるようになっている。すなわち論証されている発言である。多分。こんな感じのことを言われると、日ごろ全く意識していないと思うのである。意識している人がいるとしたら話し合いで勝てる気がしない。

 

その他、同じことを何回も言うな、言い訳は聞き苦しいなどすぐに使えそうな話が載っていた。論理の飛躍がありすぎると、聞き手はついていけないというのも載っており、あ、拙者のことだなと思った。突拍子のないことを言うことが面白いと思っていた節があり、これはよくなかったと気づかされた。

 

話し方にもルールや、型というものがあり、話し方の上手い人は知ってか知らずか、型を覚えて発言をしているのであろう。(まとめ)

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卒論が怖い

私は大学四年なのだ。つまり、今年卒業で、卒論を書かねばならないのだが、まだ1文字も書いていないのだ。

 

こう書くと、「どうせ、ゆるい研究室でまともに大学に行ってなかったんじゃねーの?」とか思う人がいるかもしれないが、そうではない。平日も、たまには土曜日も行っていたのだ。大真面目に大学に通っていたのだ。

 

そしたら、なぜ、論文が書けていないのか。という疑問がわいてくるが、大学でまともに卒論と向き合ってないからである。それだけではない、まだ卒論の材料であるデータすら出ていないのだ。

 

これは芳しくない状況である。年末をゆるりと過ごして、正月も同様にのほほんと過ごす予定を組んでいる場合ではない。はやく、卒論の完成に向け、とりかからねばならない状況である。

 

しかし、世の中はそんなに甘くなく、実験に必要な材料がそろうのは数日後である。正月はのんびりと過ごさざるをえない

 

原始仏教を日常に取り入れたい 前編

前回の更新より2週間ぶりの更新となる。当ブログである。

 

「です、ます調」で書いた前回の記事が余りしっくりこなかったので「だ、である調」で書くのである。語尾に問題があるかどうかは定かではない。

 

タイトルのとおり、今回は前編なのである。というのも今読んでいる本をまだ半分しか読んでいなからである。「である」使いすぎだ。

 

本のタイトルは「反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」 」です。コピペしたら大文字になった。

 

この本は前から目をつけていたのである。というのも前回に「こころのセキュリティ: 爆発寸前のあなたを幸せに導く「日夜の指針」 (初期仏教の本)」という本を読んで、仏教の教えを生活に実践するのええなあと漠然と考えて、さらに数冊似たような本を読んでいきたかったのだ。

 

紙媒体で買うか電子書籍で買うか迷っていたら、電子書籍版の価格が下がっているようなので買ったのだ。そして読んでいるのだ。現在途中。

 

これはブログに書評(?)を書こうと思ったのでkindleのハイライトを駆使しつつ読んでいたら途中にもかかわらず結構な量になったので、とりあえずブログに出しておこう、最近更新してないしと思ったのである。

 

それでは初めの方は忘れているので、思い出しつつ書いていきます。本文の一部を引用に挙げてそしてそこに関する感想を書いていく方針で行こうと思うのだ。よく分からないと言う方は本を買っていただくしかあるまい。おすすめできる本である。

 

大体の内容は原始仏教は実践的であり、現代人もに生活に取り入れることが出来る。それにより現代社会に翻弄されず、心の平穏が訪れる。という内容です。ですか?

 

現代の私たちにとって最も切実なテーマは〝承認欲〟──「認められたい(認めてほしい)」という欲求です。これは人間だけにある欲求で、動物にはないのだそうです。

 

本文の初めの方にある言葉である。「あ、これは承認欲のために動いてるな」と意識することはなかったが、私もこれには引っ張りまわされているのだ。学生時にテストの点数を競ったり(大体負ける)、こうして人の目に付くブログを書くのも承認欲が動かしているのだろうか。おのれ、承認欲。

 

そして承認欲のような、半場無意識に突き動かされてやったり、思ったりしたことについて放って置くと、もやもやして参ります。

 

長時間テレビやインターネットで遊んでしまったときは、「アタマが混乱していて落ち着かない」「心がざわついている」と客観的に確認します。特に「目をつむって」確認してみると、心が落ち着きます。 

 

このような経験はとてもあるあるである。娯楽のために始めたはずのテレビやネットサーフィンをやっているとだんだん頭が重くなってくるのだ。この対処法が知れるのならば、ぜひ、知っておきたいと思った。

 

それは、この文にもあるように、今、何をやっていて、何を意識しているのか確認するのだ。なぜ頭がもやもやするのか、書き出してみるといいかもしれない。なにも意識しなければ同じ思考がぐるぐる巡って、気分が沈んでいく経験は数えられないほどある。

 

そういうときに、「今、私は怒っているな。昼食がまずかったからだ」とはっきり認識できると、「何か分からないがもやもやする」といったことが避けられる訳である。こういった平和な理由でない場合の方が多いと思うが。

 

 本書では一歩踏み込んで、妄想を抜ける秘訣を「本邦初公開」しましょう。それは、「妄想している状態」と「妄想以外の状態」とを区別することです。

 

ありがたい。こういうことである。得てして妄想は無意識に行われているものなので、それを意識するという手法は思いつくようで、なかなか個人の発想ではたどり着かないのではないだろうか。

 

 改めて妄想というのは毒にも薬にもなるのではないか。と思う。友人に電車で会って気づかれずそのまま降車した後に、「今のはわざと無視したのだ。前に会ったときになにか失礼なことをしたに違いない。」という妄想は私は良くしていたように思うが、このような妄想はあまり多くしていては気分が重くなっていく。これは妄想というには浅い例ではありそうだが。

 

一方、小説家だったり、漫画家だったりは妄想を禁止されると食っていけないわけである。現実に起こってない、確かめていない出来事を想像するというのは完全になくしてしまっては困る能力である。

 

ここでは、「区別する」とだけ言っていて、無くすとまではいかないのだ。無くすというのは私の中の妄想であったのだ。上手いことを言ったつもりである。「今、妄想をしているな」と認識した上で続けたりやめたりすればいいのではないか。というのである。

 

「どうせ失敗するに決まっている」「わたしにはそれだけの能力がない」と、ひとりで「結論を出してしまっている」こともあります。これらは全部「判断」です。

 

 また、こういった判断も妄想とされている。自らの判断で自らを苦しめているのだ。妄想もピンキリなように、判断も良い判断、悪い判断があるのではないか。自分に有利な判断、独りよがりの判断、自分を無理に追い詰める判断を多用していないか。この本では妄想は妄想と現実と区別を付けておいて、正しい現実への理解を導こうとしている。

 

区切りがいいので今回はここまでにする。書評のようなものを初めて書いたが、書評になっているだろうか。引用しすぎていないだろうか。おそらく、書評にはなっていないし、引用しすぎているだろう。

 

 

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